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【PICC会員企業紹介 大久保会長との経営談義】(『王道経営』第4号より)
半導体工場のクリーンルーム内で使うクリーンスーツのクリーニングなどを手がけている㈱中部CIC研究所。半導体関連のビジネスは景気変動の波にさらされることが多いなか、リーマンショックなどを乗り越え、成長してきた。2013年に「100年不変のビジョン」を定め、さらなる飛躍を期す山口弘修さんに、これまでの取り組みや今後の夢などについて伺いました。
株式会社中部シイアイシイ研究所
代表取締役 山口弘修 (やまぐち・ひろのぶ)
1969年、愛知県生まれ。京都大学を卒業後、旭化成に入社。1995年に父が経営していた㈱ホワイト商会の子会社である㈱中部CIC研究所に入社。2010年に社長就任。
――山口さんが代表取締役を務めていらっしゃる中部CIC研究所は、特殊クリーニングや精密洗浄を行なう会社です。もともとクリーニング業を営む㈱ホワイト商会をお父様が経営なさっていて、そちらはお兄さんが継ぎ、山口さんはもうひとつの中部CIC研究所という会社を継いでいまに至っています。山口さんのこれまでのご経歴を拝見すると、京都大学のご出身ということですが、何を勉強していたのですか。
山口 経済学部でした。浅沼萬里先生のゼミで日本的経営の在り方を学びました。代表的なのが自動車産業で、下請け体制など日本ならではのビジネスモデルについて勉強していました。といっても、いまとなってはほとんど覚えていないのですが(笑)。
――将来、何になりたいかは考えていらっしゃったのですか。
山口 会長から簡単にご紹介いただいたように、私の父はクリーニング業を営む会社を経営していました。私が大学4年生で就職活動をしているときには、慶應義塾大学を出てJR東海に勤めていた兄がいずれ後を継ぐことになっていましたし、私は次男なので、父の会社を継ぐという考えはまったくありませんでした。
就職活動を始めたときは、金融に行くべきか、メーカーに行くべきかを考えたのですが、やはり何か形のあるものをつくりたいという意識が強かったので、旭化成に入社したのです。他にも大手メーカー数社が候補に上がったなかで、経営の多角化を進めていることと、何となく柔軟な印象を受けたことが旭化成を選んだ理由でした。
内定が出たときも、父にそれを伝えたところ、「良いのではないか」と言われただけで、何年たったら戻って家業を継ぐように、などとは言われませんでした。ただ、結果的には私が旭化成でお世話になったのは3年半だけで、兄と同様、家業を手伝うことになりました。
――お兄さんがクリーニング業、弟である山口さんが中部CIC研究所を引き継ぐという形で事業承継が行なわれたのですね。
山口 その経緯については、私どもの家業がどのようにして生まれ、現在に至るのかに触れながら、説明させてください。
前身は明治時代に生糸の製糸工場を興すところから始まり、昭和に入り山口毛織という毛織物業を営んでいました。しかし、ニクソン・ショックやオイル・ショックで業務が立ち行かなくなり、会社を清算しました。当時、山口毛織の役員だった私の父、山口幹夫は、ベビーブーム到来のなかで、おむつのレンタルビジネスを考案し、1972年4月に株式会社ホワイト商会を立ち上げました。私が3歳、兄が5歳のときでした。よくおむつの集配に付き合わされたのですが、父は返却されたおむつを「これは黄金なのだ。だからしっかり持って帰ってきなさい」と言っていたのをいまも覚えています。
その2年後、㈱日本さわやかグループが運営していたホワイト急便のフランチャイジーとなって、東三河地域におけるホワイト急便の店舗運営に進出し、さらに1978年にクリーニングの機材商の担当者からCICクリーニングの紹介を受けて、その権利を取得しました。CICクリーニングというのは、半導体工場などのクリーンルーム内で使うクリーンスーツに対して、その本来の性能を保つため、一貫した管理のもと超純水を使用し、クリーンルーム内で、専用の機器で除塵洗浄を行なうものです。当初はホワイト商会のCIC事業部ということでスタートし、愛知県豊橋市の菰口町の本社建物の内部を改造してクリーンルームをつくって、洗浄設備を導入しました。1984年に㈱中部CIC研究所として会社設立、その後、ハードディスク用搬送ケースなどの表面洗浄にもビジネスを広げています。
また、おむつレンタルのビジネスは、CICビジネスの理念と相いれないという理由で撤退することになり、ホワイト急便というクリーニング業と、CICビジネスをそれぞれ独立した会社として継続することになりました。現在、クリーニング業は兄が社長、CICビジネスの社長を私が務めています。
――すぐに家業を継ぐ決意ができたのですか。
山口 社会人になって3年目の秋に、CICビジネスに関連したコンタミネーションコントロールに関わる国際学会が横浜であるから行こうと父親に誘われました。当時は旭化成の延岡工場に勤務していたので、ちょっと都会で遊ぼうというくらいの気持ちで行ったのですが、実際に学会に参加してみると、フランスの会社と提携しているとか、いろいろビジネスが盛り上がっている話を聞かされて、面白そうだなと心を動かされました。
そのときに初めて父から「CICビジネスも徐々に形になってきたし、兄はホワイト急便の仕事に専念しているし、良かったら戻ってきて仕事を継がないか」と持ち掛けられました。私が子供の頃、家族で食事をしている最中に父がよく「小さくても一国一城の主だ」と言っていた言葉が頭に残っていたのか、すぐにその気になりました。
――大企業から小さな会社に入社していかがでしたか。
山口 当時、中部CIC研究所には、社員が30名ほどいました。ほぼ全員が現場の作業者でしたが、そこに総合企画室という部署を立ち上げ、その室長としてスタートしました。
とはいえ、それまで旭化成という大企業の組織を見てきた身からすると、会社としての体をなしていないように思えました。とにかくすべてにおいてお粗末でした。私が入社して最初の忘年会で、あるパートが「法律では、パートにも有給休暇があるのに、なぜうちには有給休暇がないのか」と、酔った勢いで父に詰め寄ったところ、父は「うちはそういう会社ではない。そんなに休暇が欲しいなら有給休暇のある会社に行けばいい」と一刀両断にしました。それを聞いたときは、少なくとも労働基準法ぐらいはしっかりクリアできる会社にしなければいけないと思いました。
――社長になったのは、入社して何年目でしたか。
山口 ホワイト商会のビジネスは兄が経営するホワイト急便のほうが大きかったので、父はほとんどそこにいました。一方、中部CIC研究所は当時、豊橋と亀山に工場があり、父はあまり顔を出さず、私が工場の運営を任されていたので、社長になる前からほとんど社長のようなものでしたが、実際に社長になったのは入社して15年たった2010年です。
――苦労したことはありますか。
山口 社長に就任するまでに2回新工場を立ち上げたのですが、いずれも軌道に乗せるまでに苦労しました。
1回目は1998年、三重県亀山市に三重事業所を立ち上げたときです。工場を立ち上げる前の売上は3億5000万円で、工場が完成したときは5億4000万円になっていたのですが、この工場には売上を上回る投資をしていました。
相応の受注があって売上が増えることを前提にしていたのですが、ケースの洗浄代が半額に値下がりしただけでなく、依頼元の仕事が海外に移ったことで、売上が1億円減りました。さらに半導体不況や米国の同時多発テロが重なり、会社が苦境に立たされました。
このとき、父から言われた「リーダーたる者、そんな暗い顔をしていてはダメだ」という言葉はいまでも覚えています。そうこうするなかで、大手電機メーカーが亀山工場を稼働させ、次いで大手総合材料メーカー、大手印刷会社も工場をつくり、その仕事が入ってきたことによって経営はV字回復しました。
しかし、一難去ってまた一難。業績は回復したものの、今度は社内事情がゴタゴタしてきたのです。きっかけは自分にあります。利益を出すことには一所懸命だったのですが、どういう会社にしていきたいのかというビジョンがまったくありませんでした。そこで当時、私と常に行動を共にしていたナンバー2と、組織運営のことでぶつかってしまったのです。トップとナンバー2がぶつかれば、それは組織全体にも影響します。一時は他の社員にも動揺が走りました。
この問題が一応の決着をみて、社内もようやく落ち着いてきたとき、このままではダメだと思い、企業理念を見直さなければならないと考えるようになったのです。これが2004年のことです。企業理念を練り、指針をつくろうと思いました。社員がイキイキ働けるためにはどうすればいいのか。社員にとっての幸せは何か。自分は後継者としてどうあるべきなのかなど、いろいろ考えて、理念型経営に切り替えていったのです。
――2008年から2010年にかけて赤字が続いています。何が原因でしたか。
山口 経営理念を実現するために、中期ビジョンをつくり、第三の工場をつくりました。場所は当初、静岡を予定していたのですが、そうなると、組織が分散してしまうので、本社からのアクセスがいい愛知県豊川市に工場をつくったのです。今度は、幹部社員の意見を取り入れ、皆の思いの詰まった工場をつくろうと取り組み、またしても売上を超える投資になりました。
その矢先にリーマンショックです。3年目に黒字化するという前提で借入を起こしたのですが、リーマンショックの影響が非常に大きく、売上が大幅に落ち込んだ結果、一時は債務超過にまで陥りました。現在は債務超過も赤字もすべて解消し、自己資本比率も20%まで向上しましたが、一時は非常に苦しい状況に追い込まれていたのです。
――よく「銀行は雨が降っているときに傘を取り上げる」といわれますが、債務超過に陥った企業からは、資金を回収しようと貸し剥がしをしたり、貸し渋りをしたりします。そういう厳しい状況のとき、どうやって銀行との信頼関係を維持したのですか。
山口 経営計画をきちんとつくり、月々の報告もきちんと行なうことを心がけました。もちろん、私たちの仕事は独自性、特殊性が強く、世の中の多くの産業にとって必要であり、仕事そのものがなくなることはないと、銀行もわかっていたのだとは思いますが、やはり真摯に対応することが大事だと思います。
――「100年不変のビジョン」を掲げていますが、具体的にどういう内容ですか。
山口 2013年に、「変革と挑戦」「人間尊重」の2つを基本に、ここから社員が身につける「7Factors」を定めました。具体的には、
① 「変革」に挑戦する気概
② 「新たな社会価値創造」に挑戦する使命感
③ 自然科学から未来を読み解く力
④ WIN -WIN「三方良し」の精神
⑤ グローバルな視点と展開力
⑥ 自主性・自発性に基づく経営参画意識
⑦ 様々な人と協力調和して事を推進できる人間力
というものです。
100年不変のビジョンとして掲げた2つのうちのひとつ、「変革と挑戦」は、まさにホワイト商会の歴史そのものです。
前身である山口毛織の時代は繊維産業として一時代を築き、それが下火になってからはおむつのレンタル業、それに引き続きクリーニング業へと展開し、そこからCICビジネスを派生させてきました。2002年には、次の展開を目指して、パソコンや電子機器分野だけでなく、製薬やバイオの分野に関連するクリーニングや洗浄ビジネスにもジャンルを広げ、さらに今後は、使い捨てが当たり前のビル空調用フィルタ業界に、洗浄してリユースするという新しい常識を確立するという挑戦を始めています。独自のクリーン化技術を軸にして、廃棄物の削減、コスト削減、省エネに貢献していこうということです。
このように、常に時代の流れに乗り、その先駆けとして、クリーンをテーマにして新しいビジネスを発展させていくのが、私たちのDNAです。
もうひとつの柱である「人間尊重」は、人を大事にするカルチャーが昔からあったようです。いまでも「やまけ会」という、山口毛織時代のOB会があって、すでにメンバーは皆、高齢者なのですが、私の父や、いまは亡き祖父もその場に呼ばれて懇親を深めていました。山口毛織が経営難で解散したとき、会社を整理して、全社員に2倍の退職金を払ったように、とにかく社員を優先してきた歴史があります。そういう部分は、これからも変えることなく大事にしていきたいと思います。
中部CIC研究所も、この20年間を振り返ると、たとえば半導体不況やリーマンショックなど、何度も荒波に直面し、そのたびに何とか乗り越えていまに至っています。そのなかで、あらためて人の大切さを実感してきました。あのリーマンショックのときも、全社員に対して「絶対にリストラはしない」と宣言し、皆で知恵を出し合って乗り切ってきました。
――これからの課題は何ですか。
山口 2013年から新卒の採用を開始して、そのときの学生が2014年4月から働き始めました。私はこれを第二の創業と考えています。それまでは、以前から働いてくれている人たちだけで仕事をこなしてきましたが、社員の平均年齢が50歳くらいになったので、さすがにこのままではまずいだろうと思い、新卒採用に踏み切ったのです。
初めて新卒採用をしたことが「第二の創業」だと考えているのは、新卒で入ってきた人たちは皆、入社試験のときに会社のビジョンや理念についてきちんした説明を受け、それを聞いたうえで入社することを決めているからです。
働いている途中で理念やビジョンがつくられ、それに対応してきたこれまでの社員と、すでに理念やビジョンがあって、それを聞いて入社するかどうかを決めてきた新卒社員とでは、やはりモチベーションに違いが出てくるのではないかと考えています。その意味で、新卒採用を始めたときを第二の創業期ととらえているのです。
この新卒社員たちが将来、中堅社員、マネジメントというように昇格していくなかで、中部CIC研究所は大きく変わっていくと思います。
そういう将来像を念頭に置きながら、どのような会社にしていくべきかを考えているのですが、大事なのは、社員の身の切り売りになるようなビジネスはしないということです。クリーニング、洗浄ビジネスは、一度値下げしてしまうと、値段を元の水準まで引き上げることができません。お客様が離れないようにするため、一度下げてしまった値段は、そのままにするか、さらにもう一段下げるしかありません。それが、ますますデフレを加速させる原因にもなります。
したがって、これからはシェアをとる目的で、根拠のない値下げはしないようにします。大事なことは、適正な値付けをすることです。適正な値付けで適正な利益を生み出し、それを社員に配分していきます。いわゆる社中分配です。それに加えて、給与体系の見直しも整備したいと考えています。
こうしてチャレンジするマインドを持った社員に育てていきます。100年不変のビジョンを実現するためには、人材採用、そして人づくりは、とても大事だと思います。
――経営者としていちばん大事にしていることは何ですか。
山口 やはり会社を永続させることです。サスティナビリティ(持続可能性)を重視していきたい。
ただ、会社は人がつくっている組織ですから、そのサスティナビリティを維持していくためには、社員が自律的に成長していける企業風土を築かなければなりません。ここでいう成長とは、たんに数字をより多くとってくるということではなく、人間的に成長しているかどうかです。一人ひとりの社員が人間的に成長することによって人生の質が高まっているかどうかという点を大事にしていきたいと思います。
――企業は経済を支え、国を支えています。だからこそ、企業は存続しなければなりません。王道経営の本当の意味は、存続することにあるといってもいいでしょう。
企業は利益を上げて法人税を払います。企業活動が存続するから、従業員は給料を受け取り、所得税を支払います。また、買い物をしたり、外食したりすれば、消費税を支払います。
このようにして得られた法人税、所得税、消費税などを財源として、国は予算を組み、国民の生活に必要なインフラを整えたり、社会保障制度を維持したりしていきます。安心して住める国をつくるためには、何はともあれ企業活動が存続しなければなりません。それも、できるだけ長く続けることが肝心です。
山口 まったくおっしゃるとおりだと思います。
――これからも会社を経営している以上、本当に苦しいときが何度も押し寄せてくると思います。
そして、本当に苦しいときにこそ、一体何を生み出すことができたのかが、問われると思います。その意味においても、理念とビジョンの重要性に気付き、実際にそれをつくり上げ、それを実現するために経営にあたっているというのは、非常に素晴らしいことだと思います。これからも頑張ってください。
設立:1984年9月
資本金:3000万円
営業品目:クリーンルーム用衣服等の特殊クリーニング
電子部品等の特殊表面洗浄
クリーンルーム関連商品の販売
社員数:67名(総従業員数185名)
事業所:本社(愛知県豊川市)
豊橋工場(愛知県豊橋市)
三重事業所(三重県亀山市)
1978年 日本CIC技研㈱とのあいだにCICのフランチャイズ契約を締結(営業テリトリーは、静岡・愛知・岐阜・三重の東海4県)
1984年 ㈱中部シイアイシイ研究所を資本金1000万円にて設立
1985年 中部CIC研究所18号プラント完成
1988年 電子部品及びキャリアボックス類の表面汚染制御のためのSCC 6号プラントが完成
1992年 CIC&SCC新工場として、豊橋CIC32号、SCC16号プラントが完成。
1998年 お客様のニーズに対応し、さらなるクリーンテクノロジーの挑戦と確立に向けて、三重県亀山市に新工場として、三重事業所CIC40号、SCC30号プラントが完成
1999年 品質保証の国際規格であるISO9001を取得
2006年 環境マネジメントシステムISO14001を取得
2007年 愛知県豊川市御津町に最新鋭の御津プラントCIC47号、SCC36号が完成
2008年 御津プラントISO9001、14001を取得
2018年 経済産業省より「地域未来牽引企業」に選定される
2019年 本社移転(豊橋工場から御津プラントへ移転登記)に伴って御津プラントを豊川本社(豊川工場)と名称変更 / 経済産業省より「健康経営優良法人2019」に認定される
※ 本記事は、2019年4月に株式会社フォーバルから刊行された『王道経営』第4号に掲載されたものであり、掲載当時の情報となります。